きたていっくのいつでも休憩中。その3

オリジナル幾何学アート&自家栽培ひょうたんランプの紹介、日々の日記を兼ねて。

幸福論

おはようございます。

今日もいい天気で朝からワクワクしています。連日あまり眠れなくて朝3時起きで寝不足であることを除けばそれなりに気分の良いGWを過ごしています。皆様いかがお過ごしですか?

夕飯を作るのを母と交互にするようになって2か月半ほどが過ぎました。一通りの好きなメニューは作った感じですね。唐揚げ、ハンバーグ、カレー、えびピラフ、赤飯、麻婆豆腐など。一番お気に入りの料理は鶏むね肉を使った料理かな。トマトソース味やポン酢味、照り焼きなどいろいろ作ったけどどれも良かった。メイン一品と副菜一品とお吸い物。その3つで栄養素をバランスよく取れるようにいつも考えています。さすがに40回くらい夕飯を任されていると、最近では同じ料理を回すようになってきた。でも2回目は前回よりうまくなっている気がする。要領の悪さも少し改善してきているかな。一番うれしいことは、考えて作った料理を姪や両親がおいしそうに食べてくれる事。その事を考えたとき、人の幸福というものについて思うことがありました。

年齢を重ねるごとに「幸福」というもの輪郭が徐々に浮かび上がってきています。若いころは「周りの幸せ」と「自分の幸せ」は切り離されている感じでした。だから行動や発言が自分中心で、自分が満足するにはどうすればいいかを考えることが多かった気がする。はっきりと認識していたわけじゃないけど、どうやら「幸せ」というのは「自分だけを満足させる事」ことだと誤解していた。でもそれは本当に「幸せな人生」とはいえない。

おっさんになって今思うこと。

自分の周りの人や自分と関わりのある人が幸福である事の方が、実は自分の幸せにとっては重要な要素であること。その事を意識することで、より充実して楽しく生きれるようになった気がする。もちろん自分自身が日々充実しているという事も大切なポイントだけど、周りが日々充実していることによる幸福感というものは思っているよりも大きい。だから僕が料理を作るようになって、母親の自由な時間が増えて楽しそうに何かしている姿を見ると僕自身が嬉しく幸せな気持ちになります。

次に周りの幸福が自分の犠牲の上に成り立っているように見えた時にやるべきことは、その自分の犠牲を反転させて喜びに変えられないかという事。今回の場合では料理作りを楽しむこと。それを成せれば"win-win"で完結します。

よく仕事やお金の話で、他人にどれだけ喜ばれたかの指数が収入の大きさに比例して、人の価値にも比例するというような言説があります。より多くのお金を稼いだ人が、より多くの人に貢献した証明で、より人としての価値が高いという考え方。僕はそのことについて懐疑的で、その人が価値のある人かどうかを収入で判断するのは乱暴すぎると思う。お金にはならないけどとても才能が有ったり、ただ生きているだけで辛くて部屋でこもってるだけだったとしても、持て余すほどの大きな優しさを抱えていたり。人生を振り返ってみて思うのは、実際自殺したり、死ぬほど不安感がある人の方が、実は大きな宝物を抱えていることが多いことはあまり知られていない事実のように感じている。

そんなことを考えていると、順風満帆の幸福感というもの以外にも「幸せの形」はあって、逆に人生に降りかかる負荷の大きさに比例してくるような幸せというものもあるように感じます。それを乗り越えた経験とかじゃなくて、たとえ乗り越えられなくても、それと対峙し続けていること自体が抱えている宝箱を開けまくり続ける鍵になっているような。

だから、人生の大きな負荷も幸福への道しるべということ。重い荷物の押しつぶされながらの人生もまたいいかなと考えて、あわよくばその負荷を楽しんでしまいましょう!

こう言い切ってしまうのもまた乱暴かもしれないけど敢えて書かせていただきます。

”天はその人に耐えられる負荷しか与えない”

今日はどうしても幸福論について書きたかった。どうしてもこういったことを書くと偉そうに聞こえるかもしれませんがお許しください。

あわよくばその負荷を、ひきこもりに上から言われる負荷を、是非楽しんでください(笑)

GWのさなかに思ったこと。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

それではまた!