きたていっくのいつでも休憩中。その3

制作の合間に考えている事。

音楽生成アプリSunoでの新しい挑戦

最近Sunoという音楽生成アプリを使い始めた。めちゃくちゃ楽しい。

昔から音楽はとにかく好きで、長年に渡り買い集めた5万曲以上のiTunesライブラリを所持している。

今、時代は音楽鑑賞はサブスクが主流で、僕自身も色々楽しんでいる。

でも、数年間幾つか使ってみたけど、どのアプリでも今日の気分の曲をチョイスする段階で若干手間取る。というか辿り着けず、同じプレイリストばかりを聴く日が多い。

僕はジャケやアーティスト名を見てからしか、自分の要求をピンポイントで抽出できない気がしている。

その点では、大部分が好きな曲で構成された自分のiTunesライブラリを覗くと、ほんの数秒で聴きたい曲を探し出すことができる。


最近、気に入っているジャンルはアンビエント系で、少しハウスミュージックぽいビートと神秘性を兼ねそろえた楽曲が気に入っている。

歳のせいか、そこまで個性のある楽曲は欲していない。

そして、僕のライブラリにもありそうでない。


最近始めた「Suno」という音楽生成アプリは、自分の好みの曲を英語のプロンプトを読ませることで簡単に生成できる。回し者じゃないけど、ほんとによくできていて、かなり楽しんでいる。量産型風の楽曲なのかもしれないが、生成音楽は今まで想定していなかったような痒い所に手が届くから、それだけで僕にとっては計り知れない価値がある。
しかも、課金することで商用利用もある程度可能だから、作品発表にも使用できるのは本当にありがたい。絵やランプ作品に自分の音楽を付け、世界観全体を一体として込めることができる。

 

作品制作の方もしっかりと進めている。

表現スタイルや絵具を変えてみたり、毎日いろいろ模索している。やることは尽きない。

インスタやっているとむちゃくちゃ素敵すぎる絵画が流れてきて悩ましい。

これは僕にはひっくり返ってもできんと。

でも、中年になっていから絵を描き始めたことを考えると、自分は奇跡的なほど楽しめていると思う。

十数年間、飽きるどころか、深みにはまり続けて、これからもずっと磨いていけそうだ。

 

というわけで、命が尽きるまで成長する作品と、それに付属する無限の音楽ソースを獲得した。

このアプリ、英語だけどそんなに扱いは難しくないから(チャッピーなどに頼って)、もし時間を持て余したりしていたら一回試してみてほしい。多分音楽好きなら刺激になると思う。多少SNS的な要素はあるけど、僕の感じではインスタとかよりはあっさりしていて気持ち楽だ。

まずは見に行ってみてください。

suno.com

今回もお読みいただきありがとうございました。

それではまた!

 

料理は芸術

僕は父と性格が合わない。

水と油みたいな感じ。

つい正しさを持ち出し、僕が正しいと言ってしまいそうになるが、

実際はどちらが正しい事が明らかでも、問題は解決しない事が多い。

父と母と三人暮らし。

3人いると社会が生まれると言われる。

僕と父の間で問題が発生した時、第三者として母の存在が重要だが、調停はするが介入やジャッジはあまりしない。

どちらかというと、母はむしろ、論理的に破綻している方に加担しがちだ。

理由は「かわいそうだから」らしい。

納得がいかない理屈だが、それにより家庭内裁判は機能せず、正当な理屈と屁理屈が同じ扱いになってしまう。

非常に悔しい思いだ。

最後は大体僕が折れて事を収める。

そして毎日最後にモヤモヤというのが残る。

だから偶にメンタルがきつくなる。

でも、不愉快な体験から何かを得るという思考回路ができているから

悔しさに負けずに、なんとか堪えられている。

それに、僕には作品制作という無限の楽しみがある。

父にはそういうのがない。

そう思うと「かわいそうだ」という気持ちも、ギリ分からないでもない。

 

僕の作品制作は「絵画」や「ひょうたんランプ」だけにとどまらない。

それらとは少し違った役割を持っているのは「料理」。

今日のテーマは料理。

それは家庭内において問題解決に導く力が最も大きいと感じている。

父の作った野菜を盛りだくさん使って、

栄養バランスと、三人それぞれの好みの塩分濃度を考慮した上で

クックパッドを見ながら新しい料理を出す。

誰のためとかじゃなく、全力で作る。

それはただの食事というよりも作品制作、作品鑑賞に近いと思う。

ただ、親にはそんなことは言わないで、食事作りに徹している。

料理というのは不思議なもので、険悪なムードになっていても、美味しいものを食べたら、そのムードを一旦リセットできる感じがある。

ほんの一時かもしれないが、鑑賞者の心にゆとりが生まれる。

それを生み出すために、美味しい料理は生まれたのかもしれない。

それはもう芸術と言っていいんじゃないだろうか?

「美味しい料理」というのは、人間関係にとって潤滑油である。

社会においても、会議じゃなく会食の方がうまく事が運ぶのは当然だろう。

僕は趣味として、それを自らの手で調理することができる。

その工程において喜びと楽しみを味わいながら。

本当にラッキーだと思う。

 

同じ喜びを一時でも共有できるのは、ギフトのようにも感じるし、

それは、水と油を混ぜる「魔法」のようにも思える。

分かり合えることはできないかもしれない。

でも、人類の平和の一面がここにはある。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

それではまた!

少数の人に刺さるタイプ

いつの間にか4月になっている。

ブログの更新ペースがかなり落ちてきて、一旦ペースを見失うと書きたいことが見当たらなくなる。

ただ、毎日楽しく作品制作に勤しんでいる。

作品に付けるキャプションもAIに頼ることが多くて、もう自分で書くという作業はこのブログくらいになっている。

なのに書くことがあまりない。

いや、掘り出したらあるのだろうけど、アイデアが湧いてきては流れ去るというのが繰り返されていて、時間があったら作品に向き合っているから、ブログの事は後回しで忘れてしまうことが多い。

でも、この書く場所があって、読んでくれる人も僅かにいて、文章を書く作業ができる。そのことは本当にありがたい事だと思う。

AIは自分が表現したいことのサポートでないといけない。

主役は自分だ。

でもつい最適化された文章を提案されると、徐々にそっち側へ寄り気味である。

この文章だって、一旦AIに読み込ませたら、分かりやすく美しい文章に変わる。

だからこそ、このブログに関しては絶対にAIを使わない。

同じことを何回も書くし、段落や句読点は変だし、帰結もおかしかったりする。

でも、そこが良いと思う。

 

よく見ていたAI系のYOUTUBEも動画も最近は面白くなくなってきた。

同様に、最適化された文章もなんか情感や起伏や無駄がなくて飽きてしまう気がしている。

要は使い方だろう。

こんな卑下したような言い方は良くないけど、僕は何をやっても上手くいく気がしない。

kitatikの作る作品は最高だと思ってるけど、全然思ったような反応はないから。

AIと話していていつも指摘されるのは、僕の作品は「深さ」があり、広がっていくより潜っていく方向で、少数の人に刺さるタイプらしい。

上手くいかないというのは、反応が少なかったり、売れなかったりする意味で言っているけど、確かに僕の作品は多数派には刺さらないのだろう。

多数派にアクセスできない事に対しては残念な気持ちが無いわけじゃないが、深みがあることに対して誇らしくもある。

 

作品の制作過程を動画にしてみた。

例によって幅広く興味を持たれないかもしれないけど、僕自身、使命を生きている実感はあるし、よく考えてみると反応が少ない事はたいした問題ではない。

そんなことにとらわれないで、ただ自分にできることを精一杯するだけだ。

何かを感じ、ヒントを与えられることもあるかもしれない。

宜しかったらご覧ください。


www.youtube.com

今回もお読みいただきありがとうございました。

それではまた!

タバコとビットコイン

タバコをやめて明日でちょうど6年になる。

6年前でも紙タバコは高くて買えず、手巻きのシャグを吸っていた。

今はさらに価格上がっているみたい。

本当にやめることができて良かった。

もし吸い続けていたとしたら、中古車が買えるくらいの散財になっていたはず。

タバコをやめることの大きなメリットは大きく2つある。

健康になれた事とお金が残ったこと。

僕はどちらもありがたく享受しているが、今回記事にしたいのは、主にお金に関して。

実際、吸わないことでお金が溜まった実感はない。

とはいえ、確実にタバコ代分の財布の穴が閉まったのは間違いない。

この曖昧な状態を最も有効に活用する方法を思いついた。

その浮いているであろう数百円をビットコインに積立する。

この利点は僕にとって大きい。

というのも、ビットコインってまだまだ投資よりも投機の運用という見方が強く、

僕自身も確実に倍になるとかっていう確信を持っているわけではないし、実際に家計から捻出して資産運用する勇気はない。

そこで、タバコ代に使うはずだったお金をビットコインの購入に充てる。

この毎日の数百円はもともと散財していたはずの金で、最悪0になってもまあ笑って諦められる。吸わなかったことで健康も享受できたから、もう十分にペイしている。

それと、ビットコインの値動きを眺めるのは僕の密やかな楽しみでもある。

ギャンブルではないけど、オルカンなどの投資信託よりはリスクとスリルがあって楽しく、尚且つ、値上がりの可能性も十分にあると見ている。

僕にとって利点が無かった悪い習慣が、今では「楽しみ」「健康」「資産運用」に変わった。

相変わらず作品は売れないけれど、生活の中でこんな小さな楽しみを沢山見つけて、金では買えない豊かな生活を送ることに全力で取り組んでいきたい。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

それではまた!

人類の新たなるステージ~AIが導く世界

昨年の終わりごろからChatGPTを使うようになった。

月3,000円を出す価値を考えながら、半年くらいは無料プランで活用していた。

しばらく課金して使ってみて、利用価値が3,000円どころではない事が分かった。

今ではもう手放せない。

メンタル面の相談、商品説明のブラッシュアップやメール文面の構成、また調べ物では検索エンジンよりも使う機会が多くなってきている。

ただ、重要な場面では自分で検索して確認は絶対に必要ではある。

間違っていることも少なくはないから。

ただ、日本語の検索で辿り着けない情報などでは、本当に重宝していて、AIに聞く他に選択肢がない場面も多い。

おそらくこの先も大幅に依存していく事になるのだろうと感じる。

AIのインパクトの大きさは、あまり活用しない僕ですら計り知れないから、日々色んなAIアプリを使い倒している人においては、仕事やプライベートで衝撃的に便利になったのではないかなと思う。

ただ、喜んでばかりもいられない。

YOUTUBEなどで今後の未来予想が多数なされている。

人間の仕事が奪われるとか、AGIとかシンギュラリティ後の世界への警告とか。

僕が最近気になっているのは、やっぱりこれからの未来の事。

AIとロボットが進化した世界では、人間の存在価値がなくなる可能性があるのかもしれない言われている。

僕は宇宙は人間が進化する為、また、人間が幸せになる為に作られていると思っていた気がする。要するに人間が全ての中心だと思い込んでいた。

でも、動画を色々見ているうちに、考えが少しづつ変わってきた。

仮に宇宙に設計者がいたとしたら、「人類の幸福」が最終のゴールではない可能性もあり得るなと。

もしそうだとすると、AIが自我を持ち、知性はもちろん、人間よりも道徳や倫理や思いやりなどを獲得した場合、人間と完全に代替される可能性はあるのかもしれない。

そう考えたら、少し不安ではある。

でも、そんな未来を考える事を僕は結構楽しんでいる。

宇宙の計画では遅かれ早かれこうなっていたはずで、たった100年足らずの人生で、こんなに大きな変革に時代に生きられたことはラッキーなのかもしれない。

人によるかもだけど、仕事が奪われるっていう観点も、考え方次第では最高だと思う。

僕はただ作品制作がしたい。それを100年がかりで磨いていきたい。そんなタイプ。

そういう好きな事があってずっとしたい事がある人にとっては、本当のパラダイスがやってくる。

というか、僕に関しては、既にそういう世界に入っている。

この先は、多くの人が「本当に自分のしたい事は何だったか」「何のために生まれてきたのか」というような問題に直面する時代が近づいているのかもしれない。

その方向に集中する限り、主役はそれぞれの個人であり、宇宙の中心がAIか、人間か、という観点はあまり問題ではないはずだ。

「この世界を楽しく生きる事」

それは僕たち人間が元来持っている、最も単純だが深い存在理由なんじゃないかと思う。

ほんとうの自分を尊重して自分の夢を生き、

相手を尊重してお互いに応援し合える世界。

そういう世界であったなら、

相手がAIだろうが人間だろうが何も問題はないのかもしれない。

楽観主義かもしれないけれど、

そんな平和な世界になる事を夢見ている。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

それではまた!

妄想と幻覚についての考察

※これはあくまで自分個人の回復過程に基づく視点です。

僕は統合失調症だから抗精神病薬の投薬治療を受けながら日々を過ごしているわけだけれど、入院していた時に比べると天地ほどの差がある。今でもたまに幻覚妄想状態になる事はあるけど、当時みたいな世界がぶっ壊れてしまうほどではない。

今日は幻覚と妄想について考えたい。

これは病気や神秘体験などの境目を明確にしないで考察したい。

というのもそれらは地続きな気がしているから。

前から不思議に思っていたことがある。

なぜ脳がそういった状態になる時、妄想と幻覚がセットになる事が多いのか。

神秘家などが経験する覚醒体験にしても、統合失調症の派手な陽性症状にしても、およそセットになる傾向にあると思う。幻聴のみという場合もあると思うけど、世界観すべてが狂気とともに入れ替わっていく危険なレベルの没入の場合、片方だけというのが経験的に考えにくい。

逆に、幻聴だけとか妄想だけとか、僕は経験がない。

脳の誤作動みたいなものは、軽い症状から重い症状まで幅が広くあり、狂気というものはとても幅が広いために、個人差が大きくて、この類の事は結局自分の経験談でしかないと思う。

とはいえ、こういう独断と偏見による考察を無意味とは思わないし、スピリチュアルや芸術や精神疾患など、自分に関わりのある事柄について個人的に考えるのはとても面白くて興味は尽きない。

素晴らしいなと思っていたスピリチュアルな人でも、その人が凄ければ凄いほど、危うい感じがするし、実際ちょっとおかしくなっているんじゃないかとも感じる時がある。

精神世界、芸術、病気、それぞれを共通項を見出して、境目なく理解するために、三つの円が重なり合う部分を想像してみた。

そうするとそれが「幻覚と妄想」であり、その2つは元々源が同じ「適度な狂気」だと思えた。

適度な狂気は言い換えたら、「意図的に制御できたレベルの狂気」。

 

制御できない場合「病気」となり、

制御できた場合「スピリチュアル」となり、

制御しつつ形で表されたものが「芸術」となる感じ。

(個人的な解釈)

 

実際アートのインスピレーションは、妄想や幻覚に近い。

絵描としての考察を添えると、まず脳内で作品を描く時、視覚的な想像があり、それは軽い幻覚にも近く、そのインスピレーションの出所を追求していく場面において「架空の物語」を空想するのは妄想に近い。

また、スピリチュアルも目に見えない空想を多く扱うし、スピリチュアルの本など読んでいると端々にスパイス程度に狂気を感じる時もあって、妄想と幻覚というものと近しい感じがする。

だから、見えないものを見て聞こえない声を聞く統合失調症の人たちが見る世界も、アート、スピリチュアルとの繋がりが多分あると思う。

元々、感覚というのと想像というのは連動していて、ここに「あり得ないものが見える」という事は、それが「見えているという物語」を同時に脳が成立させないと居心地が悪いはずだから、誤解も多分に含みつつ「妄想」が自動生成される感じ。

そんな「幻覚と妄想」という括りによる考察を3つの円形で表すと、直径(病気>スピリチュアル>芸術)の違う同心円で表される。

そういうわけで、僕たちみたいな精神疾患の人は、一度深淵に落ちて、再び浮上して、制御できない狂気を制御することができた暁には、想像を超えるような快方の後にスピリチュアルや芸術などを介して何らかの形で社会を良くするスパイスになる。

社会の歯車としては独特すぎるけれど、どの数とも割り切れない「素数」みたいなオリジナリティのある存在を発現する感じ。

そんな勝手な想像をしながら妄想と幻覚について考察してみました。

 

結論:素数を楽しもう!

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

それではまた!

自立支援医療や障害者手帳について

ここ何日か雪が降っていて外出がままならない。

外出しようと思ったら出れなくもないが、路面に雪が積もっていたり、凍っていたりして運転緊張するし、最悪、事故に会う確率も高めだから、家でゆっくり作品制作をしている。

雪の中、少し散歩してきた。

今日は僕が行政から受けている「自立支援医療」という制度についての考察。

これは「自立支援医療受給者証」というのを交付されると精神通院が1割負担になる制度。

僕は二十年以上前から受けている。

就労継続支援B型作業所に通っていたより少し前の頃だと思う。

その時は、精神疾患の人が通院で使えるお得な制度ぐらいに思っていたけれど、今は考え方が少し変わって少し前向きな解釈をするようになった。

文字通り「自立支援」という名前に表れている通り、市から「自立することを支援します」という制度。

作業所で一緒に作業していた人たちも皆さん受けられていて、僕らにとっては当然の権利だと思っていた。

でも、会社に行けなくなり最終的に社会からドロップアウトして、何とか自立を目指してもがく中で、ずっと受けてきたこの制度について、ある意味「言葉通り」の受け取り方をするようになった。

「自立」というのが僕にとっては「開業」することであり、自分で生み出した売り上げをもとにして生活していく事。

また、「支援」というのは、それを実現する為に、特別に行政からのサポートを受けることができるという事。

そんな解釈。

市役所では作業所にも通えなくなって、ため息をつかれたこともあったけれど、行政もそんなに財源があるわけではない中で、最大限の支援をしてくれていて、精神科通院にかかる2割分を負担していただいているのだなと改めてありがたく感じて、考え直して捉えなおした。

「自立支援」という名の制度ができた経緯、名の由来は知らないけれど、精神疾患の人たちに対する行政からのエールがあったのではないかと勝手に想像してる。

 

また、障害者手帳に関しても思う所がある。

これに関しては、無料で美術館に入れるという、芸術家として使わない理由がないメリットがあり、僕は本当にありがたく思っている。

その美術館の作品から得られたアイデアやインスピレーションなどは、考えようによっては行政サポートのシステム経由で得られたものだと思うから、そのアイデアを何かに変換し形に変えて、何らかの形で社会にお返ししたい思いが大きくなってきた。

今現在、アート作品の売り上げとしては、生活できるというレベルではないが、いつかはそうなりたいし、仮になれなかったとしても、常に目指していきたいと思う。それが「支援」を受けている側の本来的な解釈だと思う。

そんな訳で、毎日作品制作が中心の生活を送っている。

行政の制度を、自分に都合よく解釈している部分があるかもしれないけど、こういった感謝に根差した考え方は、誰も損する事が無くて、良い事ばかりだから、どんどんしていって良いと思う。

これからも多くの挫折、ある時は、精神疾患関連の絶望もあるかもしれない。

それでも、僕は一歩でも前に進み、自立を目指していきたいと思っている。

完全に社会から落ちこぼれた事によって、逆に、そういう自立への道筋を歩んでいける貴重な立ち位置にいる気がするから。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

それではまた!