きたていっくのいつでも休憩中。その3

オリジナル幾何学アート&自家栽培ひょうたんランプの紹介、日々の日記を兼ねて。

変人は悲しいけど、場合によっては生きやすい。

こんばんは!

今日は変人の悲しさについて思ったこと。

僕はまあまあの変人です(笑)。というか、普通であろうと努力した結果、失敗した成れの果てです。僕の知り合いの変人も(ごめん^^尊敬を込めてです)普通であろうと努力したと言っていたので、そういうパターンは結構多いのかも。子供の頃は自分を変人とは通常は分からないから、なんかおかしいという事が多くて、なんとなく周りと違うなぁという解釈があって、なんとか普通でいよう、周りに合わせようという努力、それと同時に、素の自分の自己否定も沢山してきた気がする。

歳を重ねるにつれて(といっても長年引きこもっているだけですが💦)だんだんと自分が普通の感覚ではないこと、それがそれほど悪いことではないことが分かってきます。

タイトルに「変人は悲しい」と書いたけど、それについてこんなエピソードがあります。(まだ卒煙前の数年前のエピソードです)

普段行かないコンビニでタバコを買おうと思って、店員さんに「すみませんタバコ2個下さい」と言いました。それだけで店員が怒り出して(怒ったというかめちゃくちゃ怪しまれて)身分証を見せてくださいと言われました。感じ的にタスポ見せろという意味ではないのが分かったので財布から免許証を出して渡しました。その店員は僕の免許証をまじまじと見て、どうにも釈然としなさそうな顔をしながら返して、しぶしぶタバコを売ってくれました。多分言いようのない違和感があったのだと思う。こいつは絶対「怪しい」という。でもそれは身分証を見ても分からないはずで、その店員が知りたいのは「身分」じゃなくて僕の「変さ」だから当然です。

その時思ったのが、やっぱり悲しいなと。

怒りとかよりとにかく悲しい。

僕の前の人がタバコを普通に買っていったのと同じように、当然僕にも普通に売ってくれると思っていたんで。

それに類似するようなことが何度もあって、その結果分かったことがあります。そんな悲しい事件がある度にそれをやってくる人に一つの傾向があることに気が付きました。

それはその人たちは常に過剰にジャッジしているという事。

おそらく目の前の人をジャッジすることはごく普通の事だと思うのだけど、それを常に過剰にやってしまう人の傾向として、「過剰な凡人」な感じと言ったらいいのか、「普通の感覚を持っていること」が優位であると認識しているタイプなような気がする。

これは僕の独断と偏見によるものだから、なんとなくですが。

端的に言って、「凡人」は「変人」が大嫌いという事。

そこで思い返してみると、凡人に嫌われて損だったことがあるかなと思うとあまり思い当たらない。ただ悲しいだけで。ジャッジしまくってくる人はむこうから避けてくれるので、ある意味ありがたくもあり、変人としては生きやすい面がある。

その上、僕のような変人に関わってくれる人は、過剰なジャッジがない素直な感じの人が多いからたいてい信頼できるというメリットもある。

変人の中でも、他人との関係性の中で自分の価値を見出そうと考える人は、場合によっては結構つらい人生になるかもしれない。サンドバックみたいになる。(メンタルが強い人は別)

繊細でかつ変人でありながら快適に生きていくためには、人生をかけて成そうとすること(一人でできる事)を一つ持っているかどうかというのが大きいと思う。

人との関りよりも、全人生をかけて何か打ちこめる事に重心を置く気持ちがあるかどうか。それがあれば、ひきこもりであろうが最低限の自己肯定は獲得できると思う。

確かに他人と関わらざるを得ない場合はあって、それが負担な面があり僕自身情けなくもあるけど、それはそれ。問題はない。

その辛さをエネルギーに変えて何かに注ぎ込み、変人を極めていく。

僕も何度か偉大な変人に助けられた経験があります。変人は変人と相性がいいから、思わぬ方向から助けていただくことがあります。

僕は他人を助けられるほど偉大ではないけど、何かしらサポートできることがあれば、尽力したいという気持ちもあります。

嫌な人となるべく関わらないで、自分のやるべきことを全力でやって、何かしら社会に還元していく。そういう人生が理想です。

というわけで、変人は悲しいけれど、場合によっては生きやすい。そんなお話でした。

今回もお読みいただきありがとうございました。

それではまた!