きたていっくのいつでも休憩中。その3

オリジナル幾何学アート&自家栽培ひょうたんランプの紹介、日々の日記を兼ねて。

薄味の幸せ

こんばんは!

冷房も暖房もいらない心地よい季節です。ちょっと散歩して、絵を描いて、神棚に御参りして、親に小言を言ったり言われたりしながらそれなりに楽しく過ごしています。

今日は些細すぎて見逃しているかもしれない薄味の幸せについて考察します。

結論。

「薄味の幸せこそが一番の幸せ」

ご拝読ありがとうございました。以上です。

で終わることもできるぐらいな事かもしれないですが少し考察を^^

一見「幸せ」というと欲を満たし続ける生活を思ってしまう傾向にあると思う。毎日活動的にアクションし続けて、思う存分金を稼ぎ、それを使って遊んで、お隣の誰かさんより充実した毎日を送る。そんな感じ。

実際には、そんなジェットコースターに乗るような刺激的な毎日はおそらく飽きがきて、更なる刺激を求めて更に稼ぎ、更に遊ぶを繰り返してエンドレスな、ある意味では苦しい毎日が待っている(気がする)。

病気になってひきこもって絵を描いたりしながら自分と向き合う中で、実は本当の幸せというのは、実に当たり前の生活の中に薄く満遍なく隠されているのかもしれないと感じるようになりました。僕に日常はこんな感じ。

早く目覚めて、朝日を浴び景色を見ながら少し散歩する。

青い瓶に入れて日光にさらした水を思う存分に飲む。

親に腹が立って小言を言う。そして言い返される。

少し険悪になりながらも、思いをぶつけたことによっていい距離感が生まれる。

神棚に手を合わせて、思い付きでいいから祈る。

ひたすらなんか作って頑張って売る。(でもあんまり売れない)

夕方、食べたいものを作って食べ、風呂でゆっくり疲れをいやし、音楽を聴きながら眠くなるのを待つ。

9時ごろになって眠くなり、早めに寝る。

朝、早めに起きる。(というかあまり眠れない)

そしてまた朝日を浴びて散歩する。

人それぞれ日常は違うけれど、その毎日の中で当たり前にやっていることが、実は人生そのもので、深くもなく浅くもなく、ただ薄っすらとした幸せ。

その薄い感覚に気が付くことができるかどうかというのがとても重要に思える。

僕は最近、何なら人との不和すらもある意味ではありがたいのかもしれないと思うようになった。言葉というのは噓を言う為や、人をおだてる為にあるのではなくて、思いを伝えるためにあると思っているから。

嫌な思いも嬉しい思いと同じように味わう。間違ったと思ったら速攻で改善する。そしてまた味わう。その繰り返し。相手の考えや行為は関係ない。改善できるのはひたすらに自分のみだから。少なくとも自分だけは変えられるというのも薄いけど幸せな事なのかも。

薄味の幸せというのを意識して探しながら生活してみるのもいいのではないでしょうか。これはただやっつけで過ごしてしまうと見つからないから、少し意識してみて、それを丁寧に拾い上げてみてほしいです。

 

今回もお読みいただきありがとうございました。

それではまた!